古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「ほ」
ほ
法花(ほうか)
中国元・明時代の三彩(さんざい)。器面に盛り上げた界線をつくり、その中に色釉を流し込む技法です。
法花とは、さまざまな色の釉薬を素地に直接掛け分けて彩る三彩の技法の一種である。
細い界線を盛り上げて文様を区切ることにより、釉が流れて入り混じることを防ぎ、三彩独特の濃く鮮やかな色彩と、明時代に流行した絵画風の文様表現とを両立させています。
匣鉢(ぼし)=さや
窯詰道具のひとつで、窯の焼成時に焼物を保護し、効率よく窯に積み上げて積むための容器。
「さや」ともいい、「ぼし」は肥前地区の呼び名。
帆柱(ほばしら)帆柱窯(ほばしらがま)
唐津焼を代表する古窯の名称。
佐賀県松浦郡北波多村にあり、桃山時代から江戸時代初期にかけて、斑唐津や黒唐津、朝鮮唐津を焼いた。
窯体の勾配角は約21度で、全長は水平距離で約30mあります。
焼成室1室の規模はほぼ2×2mであることから、その数は14室程度になると考えらています。
出土した陶器は、皿・碗・小杯・瓶・杯台などで、藁灰釉製品がその殆どですが、一部透明釉の物も存在します。
窯道具はトチンのほかにハマも出土しており、同じ藁灰釉製品を多く焼成する皿屋窯との相違を示しています。
確認調査後は山砂により埋め戻し保存し、周囲一帯は文化財敷として佐賀森林管理署より借地しています。
窯跡周辺は、国有林で良好な自然環境が残っています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。
彫唐津(ほりがらつ)
長石釉(ちょうせきゆう)を掛けて焼いた胴に彫りをつけた唐津焼。
成形後、胎土がまだ硬くならないうちに竹べらや櫛などで簡単な文様を陰刻したものをいう。文様としては幾何学的で単純なものが多く、釉薬は長石釉が多く使われ、茶碗、水指、壺、花入、徳利、ぐい呑、が作られています。
又、彫った文様の上から鉄砂を塗ったものを彫絵唐津といっている。
胎土を削った部分に縮れが出やすい性質を持つ梅花皮釉をかけることにより、彫っただけよりも違った景色(模様)ができる。
釉薬梅花皮の釉薬とは、釉薬の縮れが轆轤成形時に土の泥状がついた所にはあまり出来ず、それを削り取った所に出やすいという性質の釉薬のことで、長石の割合が多い長石釉を使います。
萩焼きでも同じような釉が使われているようです。
彫唐津茶碗の陶片が飯洞甕下窯より出土しています。
掘出し唐津(ホリダシカラツ)
唐津焼の一種です。
陶質は堅く、釉色は青黒を帯び、高台は土を見せるものと見せないものとがあり、高台内に縮緬皺紋があるのを良品とします。
堀出しの名前は、欠損したものを、陶工が不用として土中に埋めたのを、後世になって堀出したことによります。
同じ意味合いかは解りませんが、別の言い方を掘り出した物を発掘品、完成品で伝わってきた物を伝世品、昔掘り出されそのまま伝わってきた物を発掘伝世品と古美術界では言っているようです。
本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
永禄元年(1558)、京都に生まれる。
安土桃山・江戸時代初期に活躍した芸術家。近衛信尹、松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人。
本業は刀の鑑定(めきき)磨砺(とぎ)浄拭(ぬぐし)。家康から賜った京都の地に芸術村をつくり、ここで多くの楽茶碗を作成しました。
光悦は、この芸術村を中心として、書を初めとし、絵画、陶芸、漆芸と、多くの分野で、文化を高めるために、独創的な芸術品を創成していきました。
光悦は茶については千利休を批判して古田織部に学びました。