古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集

古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「つ」

肩衝茶入、「付藻茄子」(つくもなす)

和名「付藻茄子」(つくもなす)という中国で出来た茶入が有り、日本に渡り足利義満が所有していましたが、その愛蔵ぶりは度が過ぎていて、戦場に行く時も肌身離さないで鎧びつの中に特別の収納場所を作って戦におもむくほどでした。

その後、これを茶人「珠光」が買い、「朝倉太郎左衛門」から「松永弾正」に渡り、さらに時の権力者「織田信長」の機嫌とるために弾正から信長に献上され信長が茶会にしばしば使った記録があります。

安土城から本能寺に持ち込まれて、おそらくはこの茶入を主役とした茶会が開催されたと思われるが、その終了数時間後に「明智光秀」乱入の変の合い本能寺が焼け落ちたときは、かろうじて何者かが持ち出したため、なぜか無事であったようです。
変事の後、茶入は「豊臣秀吉」が所有する所となり、後に「徳川秀頼」に渡ったが、元和元年、「徳川家康」に攻められて大阪城の宝庫と共に焼けました。

家康は灰の中を探させ、いくつかの名器を探し出して見事に修復した「藤重藤元」にこの茶入を与えました。
この頃の茶入の価値の重さは、「石田光成」拳兵の報を受けて家康が兵を西に返した時、側近の某が今度の大阪攻めでは茶入の名品が沢山手に入りましょうから、軍功をたてたらそのうちのひとつを拝領したい、と申し出たという言い伝えからも、領地同様の価値観があったと思われます。

この「付藻茄子」(つくもなす)は、徳川家康よりの拝領とあって、江戸時代の間は藤重家から外には出る事もなかったのですが、明治九年四百円で岩崎家に入り、現在、静嘉堂に伝わっています。

室町時代以来、動乱に世のほとんどすべての政治経済の実力者の寵愛をほしいままにし、歴史的戦火をかいくぐって生き残った名器ですね。

土見せ(つちみせ)

釉を掛け残して、土味を見せることで、茶碗の高台回りなど釉薬(ゆうやく)が掛からない部分。
素地(きじ)が見ることができるため見所の一つとなります。

土型(つちがた)

土で作られた型のことで、棒で叩きながら形を作る「型打ち」と粘土板を型にかぶせる「糸きり細工」の2通りあります。
土でつくられた成型用の型のことで、型打ち技法・糸切細工のとき使われるます。
現代では石膏でつくられることが多い。

筒型茶碗(つつがたぢゃわん)

円筒形の胴をした茶碗。深いものは深筒、浅めのものは半筒。

筒描き(つつがき)

竹や藁など筒状のものに入れた泥奬や釉(うわぐすり)で、文様を描くこと。

筒形(つつがた)

ある程度の深さがあり、円形や角柱形が多く、扇形や花形などもある向付(むこうづけ)の器形。

鍔縁(つばぶち)

平鉢などの口縁が帽子のひさしのように横に張り出しているものをいう。

壺屋焼(つぼややき)

沖縄県那覇市壺屋で焼かれた陶器。南蛮焼の技法を取り入れた荒焼と、朝鮮人陶工により開窯した上焼がある。

鶴首(つるくび)

徳利や花生などにある、首が鶴のようにすらっと長い器形。