古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集

古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「お」

大井戸(おおいど)

高麗茶碗(こうらいぢゃわん)の一つ。茶碗の中でも特に評判が高い茶碗で、井戸茶碗(いどぢゃわん)の見込みの深いもの。
井戸の特徴を備えたなかでも、「喜左衛門井戸」や「筒井筒」など大ぶりなものを指します。

大窯(おおがま)

穴窯(あながま)に変わり、室町後期に出現した半地上式の窯で面積、体積は穴窯の倍以上。

大川内山(おおかわちやま)

佐賀県伊万里市にある、青螺山(せいらさん)の麓の地域。江戸時代には、鍋島藩窯(はんよう)が置かれた秘窯の里。
日本で最初に磁器を完成させた鍋島藩は、より高い品質と技法の維持に努め「藩窯」を組織し、1675年には有田から大川内山に藩窯を移して、その技法が他に漏れないようにしました。
この藩窯では大名や将軍家、朝廷に献上するための高級位な焼物を、明治4年まで焼き続けました。
この焼物が鍋島と呼ばれています。

大谷焼(おおたにやき)

徳島県阿波鳴門近郊の焼き物。徳島藩窯(はんよう)として磁器を焼いたが失敗し、現在は陶器の雑器窯として再興。

大樋焼(おおひやき)

石川県金沢の楽焼(らくやき)の脇窯。赤楽(あからく)に似て緻密な土質で、飴釉(あめゆう)を用いるのが特徴。
加賀藩主・前田綱紀が、茶道奉行として裏千家始祖の仙叟宗室を寛文六年(1666)に金沢へ招いたことに始まりました。
そのとき同道した、樂四代・一入の高弟であった長左衛門が初代となりました。

大名物(おおめいぶつ)

茶の湯の名物道具のなかで、千利休以前のものをいいます。
江戸時代後期、大名茶人の松平不昧によって、「大名物」(千利休以前のもの)と「中興名物」(小堀遠州の時代に選定されたもの)に分類されました。
現在では、松平不昧の分類に「名物」(千利休時代のもの)を加え、いわゆる「大名物」「名物」「中興名物」に分類する見方もあります。

尾形乾山(おがたけんざん)

陶工、画師。野々村仁清(にんせい)に作陶を学び、京都の北西(乾(いぬい)の方角)鳴滝に窯を築き、乾山と称す。
乾山は、寛文3年(1663)京都の富裕な呉服商尾形宗謙(おがたそうけん)の三男として生まれました。

兄は画家の光琳です。
二人の性格は対象的で、光琳が派手好みであったのに対し乾山は内省的、隠遁的な性格の持主であったといわれています。
野々村仁清に陶芸を学んだ乾山は、元禄12年(1699)37歳のとき京都市の鳴滝に開窯しました。

そして正徳2年(1712)50歳の乾山は、京市内の二条丁子屋町に移住し、多くの作品を手がけ「乾山焼」として世にもてはやされました。
鳴滝時代の末期からこの丁子屋町時代にかけて兄の光琳は絵付で乾山を助け、兄弟合作の作品が数多く残されています。

享保16年(1731)69歳の頃に江戸に下り寛永寺(かんえいじ)領入谷(いりや)に窯を築いて晩年を送りました。そして81歳で没するまで江戸に在住し陶器や絵画の制作に手腕を発揮しました。

乾山の作品は陶芸作品のみならず書や絵画においても、俗気を脱したおおらかで文人的な洒脱味があります。
陶芸作品においては成形、施釉、焼成は他の専門的な陶工に任せたり、絵付についても光琳との合作以外に複数の専門画家が携わっていたと思われるなど、基本的には工房生産という態勢をとっていたようです。

しかし、乾山の指導のもとにつくられたやきものには、その大胆なデザイン感覚とともに乾山特有の芸術性が溢れ、乾山その人とふれあうような親しみが感じられます。

尾形光琳(おがたこうりん)

1658年、京都の呉服商雁金屋尾形宗謙の次男として生まれる。
尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわかっていません。

30歳の時、父の死去に伴い家督を継ぐが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。
画業に身を入れ始めたのもこうした経済的困窮が一因のようです。

大画面の装飾的な屏風絵から、水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都会的センスとデザイン感覚があふれています。

弟の乾山との合作による陶器の絵付け、手描き友禅の絵付け、漆工芸品のデザインに至るまで、幅広くその才能を発揮しています。

奥高麗(おくごうらい)

唐津焼の一種。朝鮮の李朝(りちょう)で焼かれた高麗の茶碗に似た、無地で素朴な趣きのある茶碗。

桃山時代の古唐津茶碗で、熊川風の古高麗茶碗を写したもので、奥は往古の意味にも、朝鮮の奥の意味にもとれるが明確ではありません。
奥高麗は普通の古唐津より細かい土で作られ、砂気が少なく、形も無造作で、北部朝鮮系の茶碗の気宇が残っています。

器肌は枇杷色から黄色、青みの出来のものまで種々あります。
千家名物「中尾唐津」および「是閑唐津」は、口が外に開き、高台も低く、「深山路」は最も標準的な形で、「安井」(大和文華館蔵)は呉器風の椀形です。
中には米量(よねばかり)と呼ばれ米櫃から米を掬う器として使用されたものもあります。
高台や口造りが欠損して朽ちた姿になったものを根抜と称することがあります。

奥田頴川(おくだえいせん)

京焼(きょうやき)の陶工。30歳の頃、趣味から作陶の道に入り、京都では初めて磁器の焼成に成功。呉須赤絵(ごすあかえ)が得意。

御茶わん窯(おちゃわんかま)

唐津藩の御用窯(ごようがま)。ここで焼かれたものが献上唐津(けんじょうからつ)と称される。

鬼板(おにいた)

瀬戸地方で大量に産する鬼瓦に似た板状の褐鉄鉱。釉薬(ゆうやく)や絵志野(えしの)の鉄絵(てつえ)に用いられる。
褐鉄鉱の一種、第二酸化鉄が主成分で土の鉄分が流れて固まったものなどをいいます。
水で溶かしたものが、志野や織部・唐津などの鉄絵として用いられています。

御庭焼(おにわやき)

江戸時代、自らの趣味で大名や重臣が城内や邸内に窯を築き、焼かせた陶磁器のこと。
または、大名たちが邸内に茶器などを焼かせるために設けた窯のこと。

御深井(おふけ)

美濃焼と瀬戸焼にあり、透明の淡青色をした御深井釉と呼ばれる釉がかかった焼き物。尾張徳川家の御用窯(ごようがま)。

御室焼(おむろやき)

野々村仁清(ののむらにんせい)が京都市右京区御室堅町に開窯し、そこで焼かれた焼き物。

オランダ東インド会社(おらんだひがしいんどがいしゃ)

16世紀末よりアジアの貿易活動を行なった独占企業体。中国陶磁や日本陶磁をヨーロッパやアジア各地へ輸出。

織部(おりべ)

茶人古田織部(ふるたおりべ)の好みによって17世紀初頭から美濃(みの)で焼かれたもの。色釉、文様、形状が奔放で斬新なものが多くあります。
桃山時代に美濃国(岐阜県)で古田織部の指導によって焼かれた陶器のことをいいます。

本来、現今いわれている織部焼と志野(白織部ともいう)・瀬戸黒などを包含したものであったことは、『茶碗茶入目利書』に「織部、四通有、志ノ、鳴海、瀬戸、絵之手、惣体厚く出来いふつ形多ク、絵有モ有、絵ハ土必見、志ノ土見ル、黒土見、薬ハ白薬薄柿色有」とあり、織部焼を四通りに分類していたことからでもわかります。

異国風のもの、幾何学的文様、写生風のものなど種類が多く見られます。
茶碗・向付・皿・鉢などに特徴が見られ、慶長(1596-1615)ごろ元屋敷の唐津風登り窯により著しい発展をとげました。

織部はその様式から黒織部・青織部・絵織部・鳴海織部・唐津織部などに分類されています。

織部好み(オリベゴノミ)

古田織部の好み物を指します。
茶席では、藪内家の燕庵、奈良国立博物館内の八窓庵など、陶芸では織部焼の名を残し、沓茶碗ほか形状・文様・色釉に技巧を凝らした複雑な効果を求め、また餓鬼腹茶入・織部形伊賀水指などがあります。

漆芸では芽目張柳蒔絵の炉縁や棗、染織では織部紗があり、松屋肩衝茶入に添えられた織部緞子があります。
表具にも織部好みといわれるものが残っています。
なお織部の称を冠した料理も数多くあります。

小鹿田焼(おんだやき)

大分県日田市源栄町で焼かれる陶器。装飾法として刷毛目(はけめ)、飛び鉋(とびかんな)、櫛目(くしめ)などが特徴。