古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「か」
か
貝高台(かいこうだい)
古くは、器物を重ね焼きするとき、熔着を防ぎ、また器の座りをよくし製品の歪を避けるため、器物の間に貝を置いて窯詰を行ったが、そのため高台に貝殻が付着したり、貝殻の形紋が付いたものをいいます。
朝鮮茶碗、唐津・上野・高取焼などに多く見られます。
昔、現代のように優れた窯道具が無かった時代、工夫を重ね、常々食していた貝の殻を使ってみて、貝殻の主成分である石灰は単独では高温(陶磁器を焼く温度)では熔けず形も崩れにくい性質であること、又これが焼きあがった後の処理がとても簡単で土や他の物では形は崩れないが硬く焼きしまっていて削り取りが大変だが、貝殻だと焼き上がった時は硬かったのが水に浸けると崩れ落ち後は器物との接着部分の鋭利な所を削るだけの手軽さを知り、土で作ったハマ(器物を乗せて焼く窯道具)の上に貝殻を敷き、その上に器物を乗せたやり方で窯詰を行っていたようです。
貝高台を使用するとその部分が窯変します。緋色が鮮やかに出ます。これを一般の商品に行えば、ムラが発生しますのでよくありませんが、1個づつ作る作品は味わいがある作品になります。
懐石(かいせき)会席(かいせき)
茶道の発達に伴い、茶事にふさわしい料理が考えられ、「懐石」と呼んだ。時代を経て転じて、宴会の料理を「会席」と呼ぶようになったようです。
和食店や日本料理店での懐石料理は禅門における本来の意味での懐石料理(精進料理)や茶を喫する為の料理、茶懐石料理から発展したものです
灰陶(かいとう)
中国・竜山文化期から殷・西周までの先史時代の土器の一種です。焼成の最後の段階で、燻し焼きで焼き締めたもの。朝鮮の百済土器や新羅焼、日本の須恵器が同じになります。
梅華皮(カイラギ)、梅花皮(かいらぎ)
釉(うわぐすり)がちぢれて粒状になった部分で、井戸茶碗(いどじゃわん)のように燃焼不足から高台脇の釉(うわぐすり)が溶けきれず鮫肌状(釉が縮れて粒状になった部分を言う。)になったものをいいます。
カイラギ梅花皮・鰄とも書き、カエラギ・カエラゲともいいます。
本来、「東南アジア原産の鮫類の皮で、アカエイに似た魚の背皮」を意味します。
その皮で、刀剣の柄や鞘や、装飾品に用いられました。
カイラギは本来刀剣の柄などを飾る蝶鮫の皮のことで、その白いざらめき肌が釉縮れに似ていることから、転用されました。
高台も削り出しが荒くなされた後釉をかけると、窯の中でその縮れた土皺の間に釉が結粒し、カイラギを生じやすくなります。
昔の茶人・数寄者等がそれを見いだし珍重し「カイラギ」と見立てて、その名称で今日にまで伝えられたのだと思います。
それらは現在まで唐津焼、萩焼のルーツとして現在まで受け継がれています。そのほかにも志野焼の中にも同じ様な模様をした陶器も見られます。特に有名なものとして古陶器の井戸茶碗など李朝系(朝鮮半島)の陶器が挙げられます。
焼き物を作る上で、はっきり言って釉薬では不良品だと思いますが、そういった不良品を日本人特有の美的感覚から美術工芸品として、茶の湯では景色として喜ばれれています。
蛙目粘土(がいろめねんど)
花崗岩類の岩石が風化して堆積したもので、カオリンを主成分とし、2~5・ほどの石英の粒子が入った粘土をいいます。
風化花崗岩が淘汰されることなく湖沼に堆積したカオリン質粘土層より、カオリナイトを主成分とする粘土を水簸(珪砂と粘土の分離)し、精製した可塑性粘土です。
蛙目粘土は、比較的大きな珪石粒(せきえいりゅう)(珪砂(けいしゃ))を含んだ堆積粘土で、雨が降って粘土が流れた後に、珪石粒が蛙(かえる)の目のように残っている姿から蛙目粘土と呼ばれるようになりました。
粘土と珪砂は約半分ずつ含まれており、水簸(すいひ)して粘土と珪砂を分離して、珪砂はガラス原料などに使用されます。
蛙目粘土は可塑性が高く比較的豊富に産出したため全国に出荷されています。
蛙目粘土も木節粘土と同様に炭化した木を含むためネズミ色に着色された粘土です。
花押(かおう)
記号もしくは符号風の略式の自署(サイン)で、判(はん)、書判(かきはん)、判形(はんぎょう)、押字(おうじ)などともいいます。
花押の起源は自署の草書体にあります。
これを草名(そうみょう)とよび、草名の筆順、形状がとうてい普通の文字とはみなしえないまでに特殊形様化したものを花押といいます。
花押の発生は中国にあって、その時期は遅くも唐代中期と見られています。
日本の花押も中国にならって用い始めたと考えられ、その時期は遺存史料の限りでは10世紀前半期ころのようです。
カオリン(かおりん)
磁器の原料である白色磁質の粘土の一種で、磁器(じき)に使う釉薬(ゆうやく)の原料として用いられ耐火度が高く粘り強い粘土鉱物で超微粒子の集合体です。
陶器で有名な中国の景徳鎮で使われていた陶土の産地、高陵(カオリン)村の名からカオリンと呼ばれています。
柿右衛門様式(かきえもんようしき)
伊万里焼(いまりやき)の一種。
濁し手(にごして)とよばれる白磁(はくじ)に赤絵の具を基調とし、余白をいかした優美な色絵磁器のことをいいます。
17世紀はじめに、国内で最初に磁器を作り出した肥前(ひぜん)地方で生産され、ヨーロッパに輸出されたもので、アメリカを経由して日本に里帰りした。
柿右衛門様式の磁器はヨーロッパで人気を博し、18世紀に入ってヨーロッパで最初に磁器の焼成(しょうせい)に成功したドイツ・マイセン窯をはじめ各地の窯で、コピー製品が作られました。
掻き落とし(かきおとし)
生乾きの素地(きじ)に黒色の土を塗り、一部を削り取り文様を描くという装飾法。中国磁州窯(じしゅうよう)の朝鮮李朝(りちょう)ものが有名です。
掻き落としは化粧土を使った装飾技法の中でも古くから一般的なものです。
中でも中国の磁州窯、高麗青磁、李朝の粉青沙器などが有名です。
志野焼の鼠志野、紅志野も酸化鉄を多く含む黄土を化粧土として使い、模様を掻き落としたもので、還元焼成すると鼠志野、酸化焼成すると紅志野になります。
柿の蔕(かきのへた)
高麗茶碗(こうらいぢゃわん)の一つ。李朝(りちょう)の初期に作られ、青みを帯びた釉(うわぐすり)が薄くかかった肌合が、柿の蔕(かきのへた)に似ているためその名がある。
その名の起こりは、文字通りその釉色が柿の蔕の色に似ていること、高台から見ると高台付近が柿の蔕のように見える事で、我が国の茶人が付けた名前です。
柿釉(かきゆう・かきぐすり)
酸化焼成で柿色に焼き上がる、褐色の鉄分の多い釉をいいます。
掛流し(かけながし)
なだれ状に、2~3種類の釉薬(ゆうやく)を柄杓などで流しかけること。
九州の小鹿田焼が有名です。
掛分け(かけわけ)
2種類以上の釉薬(ゆうやく)を器物の左右または上下に掛分ける装飾焼成技法の一つです。
鎹継ぎ(かすがいつぎ)
陶磁器の割れたのを接合するため割れ目に沿ってその左右に小穴をいくつかあけ、金銀などの小鎹で継ぎ合わせる修理法をいいます。
中国人の特技として知られています。
有名なのは、中国の南宋時代に作られた青磁茶碗の名品、その名も馬蝗絆(ばこうはん) ですね。
これは、南宋時代(12世紀)砧(きぬた)青磁の名品でした。
その後、時代は流れ室町幕府の第8代征夷大将軍、足利義政(15世紀中旬頃)の時代に過って、このお茶碗にひびを入れてしまい、当時の中国(明時代)に送り、代わりのお茶碗を要求したらしいのですが、これに代わる名品は作れないとして、当時の中国皇帝(明王朝)は、お茶碗に鉄の鎹(かすがい)で修理を施して返送したとされています。
どうしてこのお茶碗が「馬蝗絆(ばこうはん)」名付けられたのは、馬蝗(ばこう)とは馬の背中にとまった蝗(いなご)であり、中国で鎹(かすがい)の意味でも使われるため、このお茶碗の修理に使われた鎹(かすがい)を背中に泊まったイナゴに見立てて、この銘(名)がついたということです。
室町期の唐物数寄の中でも特別に評判が高かったらしく、通常、漆を糊代わりにして修理するところを、わざわざ目立つ鎹を用いていることから、器の価値を誇示する目的もあったと推定されています。
時代が数百年進んだにも関わらす昔の名品を再現させることが出来ない、中国の青磁が最高レベルに達したのが南宋時代(12~13世紀)と言われる所以です。
12世紀から15世紀の時代を超えて繰り広げられた中国と日本の美意識の高さを示す歴史物語の一つです。
片口(かたくち)
鉢の口縁に一ケ所注ぎ口があるもの。唐津の片口(かたくち)の中には、注ぎ口を欠いて侘茶の茶碗として用いるものもあります。
本来は油・酒・醤油などを入れて用いた雑器ですが、懐石で香物鉢に用いたり、小振りのものは茶碗に用いています。
一般に瀬戸系のものは注ぎ口の上に縁が無く、唐津系のものには縁があります。
注ぎ口を欠き共繕いしたものを「繋ぎ駒」、穴の残ったままのものを「放れ駒」といいます。
唐津の片口は新たな土で片口を造り穴を開け接着する作り方をしています。
この片口の造り方は唐津が日本では最初のようで片口と唐津とが代名詞ともいえるでしょう。
片口の口は、昔は用途として作っていたのですが、今日ではほとんど装飾的な意味合いで作っているのが多いようです。
茶道において片口を侘びの茶碗に用いることがありますが、これはほとんど唐津の茶碗に限られているようです。
型作り(かたづくり)
型に陶土を押し当てて成形するため、同形のものを量産するのに適した技法。
型抜き、型打ちともいいます。
堅手(かたで)
高麗茶碗(こうらいぢゃわん)の一種。素地(そじ)や釉色が堅い感じがその名の由来で、ほとんどが白地の茶碗。
李朝前期に作られたもので、土・釉ともに堅い感じがするため、堅手と呼んだものらしく、多くの窯で作られています。
形は井戸風の開きかげんの茶碗となっています。
普通は総釉であるが、代表的な長崎堅手では釉が裾で切れていたりすることがあります。
現在では、陶器・磁器と区別していますが、当時は、作り方は同じでも本来は窯の近くの土を使い焼成するため、区別しにく買ったため、結果的に焼きあがったものが磁器質のものを堅手と表現したのではないでしょうか。
片身替り(かたみがわり)
器の文様などが、左右または上下半分ずつ異なること。
焼成により、火表と火裏ができ、器の半分ずつで景色や調子が異なることがあります。
現在では、人為的に釉や絵付けを表と裏で変える装飾技法の一つとなっています。
型物伊万里(かたものいまり)
型を用いて成形した伊万里焼(いまりやき)。染付(そめつけ)・色絵(いろえ)に金彩(きんさい)を加え、唐草・幾何学的な小紋を組み合わせた文様構成が特徴。
褐釉(かつゆう)
中国の漢時代につくられた低火度釉の褐色の釉。
通常、緑釉・褐釉の総称として使われることが多いが、ここでは緑とも褐色ともつかない特有の釉楽について、この名称を用いています。
蕎麦釉などともよばれる鉄釉の一種です。
加藤唐九郎(かとうとうくろう)
16歳から作陶をはじめ、黄瀬戸(きぜと)、志野(しの)、絵唐津(えからつ)、伊賀(いが)など幅広くおおらかな作風が特徴の陶芸家、また陶磁史研究家。
1897年(明治30)7月19日は愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水野町)出身。
桃山時代の陶芸の研究と再現に努めました。
永仁の壺事件で、無形文化財の資格を失うなどの波乱も味わっています。
窯(かま)
窯とは一つの発熱装置であると同時に、発生した熱エネルギーを作品に伝えることによって、実用に耐えられるように胎土を焼固させ、また、施釉したうわぐすりを熔かし、その機能性を高めるとともに美的効果を促進させようとする道具(装置)です。
低火度(ていかど)の窯は、素焼窯・錦窯(絵付窯)であり、高火度の窯には本焼窯があります。
加守田章二(かもだしょうじ)
灰釉陶や象嵌(ぞうがん)、彩釉など多彩で独自の作陶をもった陶芸家。
陶芸家として初めて高村光太郎賞を受賞するなど、若くして陶芸界の注目を集めた作家でした。
白血病にて享年49才にて亡くなられました。
同じ病気の陶芸家としても尊敬している陶芸作家です。
唐子絵(からこえ)
中国人の子供を描いた図柄で、九州平戸の三川内焼(みかわちやき)で、松樹の下で遊ぶ唐子(からこ)の図が有名です。
松の木の下で無心に蝶とたわむれる中国の子供を描いた図柄で、別名「献上唐子」とも云われ、7人が朝廷と将軍家、5人が大名とその重臣、3人が一般武家と使用する人によってその人数が定められていました。
格調高い由緒ある唐子絵は、昔から平戸藩主松浦公の指定図柄とされ、他藩ではこの図柄は絶対使用することが禁じられていました。もともとは、呼んで字の如く中国からはいってきた図柄です。
唐津焼(からつやき)
佐賀県西部から長崎県にかけて焼かれた陶器。朝鮮陶工により開窯され、日本三大茶器であり茶陶(ちゃとう)が有名です。
唐津焼の名称は、元々肥前の国(佐賀県・長崎県)で焼かれ生産されていた焼き物を、唐津の港から舟で全国に出荷されてたことによる名称で、有田焼が伊万里より出荷されていたことにより伊万里と称されいたことと類似しています。
唐津市街地には古唐津の窯跡は少なく、伊万里・武雄・多久・有田・三川内など広範囲に点在していて、それぞれ地方の名にちなみ、松浦唐津・武雄唐津・平戸唐津など他にもあります。
有田焼の有田でも唐津は焼かれており、同じ窯で唐津焼と有田焼が同時に焼かれていた痕跡が残っています。
中でも十六世紀から十七世紀ごろまでの唐津焼を「古唐津」と称しています。
唐津物(からつもの)
近世、陶磁器の主産地が唐津と瀬戸であったところから、陶磁器を主に東日本では瀬戸物、西日本では唐津物と呼び慣わしてきました。
今日でも瀬戸内海沿岸、山陰、北陸から新潟県までの日本海沿岸では,焼き物のことを「唐津」または「唐津物」と称しています。
唐物(からもの)
中国から輸入されたものの総称。
焼き物では、天目・茶碗・水指・茶入・花入などで室町時代に最高評価を得ています。
河井寛次郎(かわいかんじろう)
京都五条坂に開窯。濱田庄司らと民芸運動を興し、黒褐釉、鉄絵、辰砂染、白化粧など味わいある作風が特徴。
明治23年、島根県で生を受けました。
中学の頃から陶芸の道に入ることを念とし、大正3年に京都市陶磁器試験場の技手となって釉薬、技法の研究を進めるなかで、作品展に出品するようになったのが、同10年はじめて催した個展で一躍名を知られる。
その後は柳宗悦らと民芸運動を率いる一方、制作に工夫を重ねては、華麗で斬新な秀作を次々に生み、戦後に至って大胆な上に奔放さを加えた業は、国際的な評価を受けました。
その独創性で、作品が近代陶芸における金字塔となったのは、それが同時に民族の造型そのものだったことです。
川喜田半泥子(かわきたはんでいし)
「東の魯山人、西の半泥子」とも称されました。
明治11年、大阪市の仮寓で生を受けました。
本名は久太夫政令、幼名を善太郎といいました。
生家は三重県津市の素封家で、東京・大伝馬町に寛永年間から続いた木綿問屋でした。
家業を継ぎ、百五銀行頭取など財界で活躍する一方、陶芸・書画・俳句・写真など多方面に優れた才能を発揮してきました。
とりわけ、大正初年頃から始めた作陶は、趣味の域をはるかに超え、沈滞していた陶芸界に革新的な息吹を吹き込むことになりました。
茶道に対する深い理解、作品や芸術・文化における鋭い着眼点と深い知識は、同時代に生きた陶芸家たちにも深い影響を与え昭和における陶芸復興の礎ともなりました。
皮鯨手(かわくじらで)
唐津焼に多い装飾方法の一つ。
茶碗や皿の縁に鉄釉をかけて焼くと茶褐色の発色を見ることができますが、それが鯨の肉を切ったとき、鯨の皮の黒い部分に類似しているところを連想させるところから名づけられたもので、九州地方の陶器に多く用いられます。
瀬戸唐津の茶碗の口縁は鉄釉で周囲を巻いているため皮鯨茶碗の別名があります。
絵の入った絵唐津でも同じように縁取りしたものもありますが、絵が入っている物は絵唐津と呼び、絵がない物を皮鯨と呼びます。
還元炎焼成(かんげんえんしょうせい)
焼成の際、窯の中で、酸素の少ない状態で焼成し、酸素量を減らし炭素の多い不完全燃焼で焼くことをいいます。
土や釉(うわぐすり)に含まれる金属の固有の色を発色します。
釉薬の中に含まれる金属は還元炎焼成すると鉄分の場合青色に、銅分の場合赤色に発色します。
青花や青磁、釉裏紅の釉色はこうした焼成によって得られたものです。
貫入(かんにゅう)
素地(きじ)と釉(うわぐすり)の収縮率の違いから、器面に生じたひび割れ。装飾のひとつとして使う場合もある。
貫乳ともいいます。
中国では開片と呼び、元来、宋代の官窯青磁には釉にひびの入ったものが焼成され、そのひびの入り具合を文様に見立てて、魚子紋・牛毛紋・柳葉紋・蟹爪紋・梅花片紋などと呼び、鑑賞上重要なポイントになっていました。
官窯系の青磁器にひびの入っているものが多かったところから「くわんよう」(官窯)、転訛して「くわんにゅう」となり、貫入・貫乳などの宛字が広まりました。
清朝の寧窯などでは窯出し直後、墨汁・紅柄汁などに浸して放置し、釉のひびは文様となって消えなくなります。
官窯写しの青磁器はこの方法によるものが多く見られます。
貫入が入る原因としては、焼成時のとき収縮する割合が生地(土)と釉薬(表面のガラス質)が違うので、窯の中で高温度から常温に温度が下がるときひびが入ります。
特に陶器に多く見られ、磁器の場合は生地と釉薬の成分が似ているため、収縮率の度合いが違わないためにあまり貫入は入りません。