古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「せ」
せ
青花(せいか)
青花とは、白磁の素地にコバルトを含んだ顔料で文様を描き、透明釉をかけて焼成する技法で、わが国では染付とも呼ばれます。
青花の技術と様式は、元時代後期の景徳鎮窯において完成されました。
青海波(せいがいは)青海波状文(せいかいはじょうもん)
同心円の半円形を重ね併せて、波文様を表現した文様。
叩き技法で作る壺・水指等の内側によく見られます。
内側には丸太外側は板で、同時に叩き合わせて土を締めながら作る叩き技法により、規則正しいリズムでたたくのでこのような輪状の文様ができます。
輪状の文様は丸太(杉や松や桜の木を焼いて作ったもの)の年輪の叩き跡の文様です。
青磁(せいじ)
磁器の一種で、釉薬の中に少量(2%前後)含まれる鉄分が、還元炎焼成されて酸化第一鉄となり青緑色に発色した磁器。
鉄分が少ないと青白磁となり、さらに少なければ白磁となります。
また釉薬中の鉄分が多いと黄色から褐色、さらに黒色となります。
古く中国の殷・周時代に始まり、戦国から前漢時代に一般に使用されるようになった灰釉陶が青磁の始源と考えられています。
三国・六朝時代になると、古越磁(こえつじ)といわれる青磁が越州窯でつくられた。
北宋になると華北の汝窯や官憲でつくられたが、南宋になると修内司官窯・郊壇官憲や民窯では龍泉窯で優れた青磁がつくられました。
中国の龍泉窯・汝窯・磁州窯などに優品がみられます。
日本ではその時代と色によって、南宋代の粉青色を呼ばれる鮮やかな青緑色の砧手(きぬたで)、元代から明代にかけてのやや黄色味を帶びた緑色の天龍寺手(てんりゅうじで)、明代後期の透明性のある淡い翠青色で貫入があるのが特徴とされる七官手(しちかんで)と呼び分けてきました。
高麗時代の初期になると朝鮮に伝えられ、いわゆる高麗青磁がつくられるようになりました。
10~13世紀にはヴェトナムに、13世紀にはタイにも伝えられ、日本では江戸時代になってから青磁がつくられるようになりました。
佐賀県有田の伊万里青磁・鍋島青磁などが有名です。
青瓷(せいじ)
青磁のなかでも、器胎が陶器質の場合にこの文字を使う場合があります。
「青磁」は磁器質を表しています。
青白磁(せいはくじ)
中国景徳鎮(けいとくちん)窯で宋代に焼かれた、白磁(はくじ)と青磁(せいじ)の中間のような薄青い磁器。室町時代に日本へ多く輸出。
石炭窯(せきたんがま)
石炭を燃料とした窯で、日本では19世紀末から半ばまで、重油窯や電気窯に移行する50年程の間に使用。
ゼーゲルコーン(ぜーげるこーん)
窯のなかの温度を測るための、配合土でできた三角錐の温度計です。
ある熱量を受けると、曲がるように調合してあります。
焼成程度あるいは耐火度を測定するために使用する標準の三角錐。
わが国やヨーロッパ各国で使用されています。
標準のコーンとして、ISOではISOコーン、アメリカではオルトンコーンが用いられます。
石灰釉(せっかいゆう)
下絵がにじまないため、絵付けをした器に掛けるのに適する釉。
1号釉から3号釉まであります。それぞれ融ける温度が違いますので用途に合わせて使用します。
非常に便利な釉薬ですが、唐津ではあまり使用しません。
せっ器・石器(せっき)
備前(びぜん)・信楽(しがらき)・常滑(とこなめ)などのように、素地(きじ)が白色でない、石のように固く焼き締められた陶器の総称。
石膏型鋳込み(せっこうがたいこみ)
轆轤(ろくろ)では不可能な形を、石膏の吸収性を利用し、石膏型をつくりそこに泥漿を流し込んで作る方法。
瀬戸(せと)
愛知県瀬戸市並びにその周辺で作られる陶磁器の総称。
六古窯(ろっこよう)の一つで成立は古く平安中期の灰釉陶器にまで遡ります。
鎌倉時代の初めから室町時代の中頃瀬戸窯では、中国や朝鮮から輸入された陶磁器を模倣し、釉薬を器面全体に施したやきものが製作され、この日本の中世唯一の施釉陶器を「古瀬戸」と呼んでいます。
加藤四郎左衛門景正(かとうしろうざえもんかげまさ)が貞応2年(1223)に僧道元(どうげん)に従って入宋し、陶法を修業して帰国し、仁治3年(1242)瀬戸において窯を築いたのが瀬戸焼の始まりとする陶祖藤四郎(とうそとうしろう)伝説が古くから伝えられています。
灰釉のみが使用された前期(12世紀末~13世紀後葉)、鉄釉が開発され印花(いんか)・画花(かっか)・貼花(ちょうか)など文様の最盛期である中期(13世紀末~14世紀中葉)、文様がすたれ日用品の量産期となる後期(14世紀後葉~15世紀後葉)の三時期の区分がされています。
戦国時代になると、大窯により天目茶碗、中国明代の青磁や染付を模倣した供膳具が生産されました。
桃山期になると美濃地方を含めた地域で「黄瀬戸」「瀬戸黒(せとぐろ)」「志野(しの)」、さらに17世紀初頭には連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)の導入とともに「織部(おりべ)」といった桃山茶陶(ちゃとう)の生産が全盛期を迎えます。
江戸時代中期になると名工達による一品物の制作が盛んに行われ、瀬戸村の春琳(しゅんりん)・春暁(しゅんぎょう)・春宇(しゅんう)・春丹(しゅんたん)・善治(ぜんじ)、赤津村(あかづむら)では春岱(しゅんたい)・寿斎(じゅさい)・春悦(しゅんえつ)、下品野村では定蔵(ていぞう)・品吉(しなきち)・春花(しゅんか)らの名工が幕末期にかけて活躍します。
江戸後期になって、文化4年(1807)加藤民吉(かとうたみきち)により有田から染付磁器の製法が伝えられてからは、染付磁器が主流となる。
現在、加藤民吉は瀬戸の磁祖(じそ)として窯神神社(かまがみじんじゃ)に祀られ9月の第2土・日曜日には「せともの祭り」が開催されています。
瀬戸焼(せとやき)
愛知県瀬戸市の陶磁器。鎌倉時代に加藤四郎右衛門景正(かとうしろううえもんかげまさ)が、中国の陶法を伝え天目茶碗(てんもくぢゃわん)や茶入を焼いたのがはじまりといわれています。
瀬戸唐津(せとがらつ)
茶碗の一種で、唐津の漉土を使い、瀬戸の上薬を用いて焼成したゆえにこの名があるという。
砂気の多い白土で、白色釉が施され、釉ひびがある朝顔形の平茶碗で、高台は低く、口縁に鉄釉の口紅が施され、俗に皮鯨と称される。
中国定窯・磁州窯などの天目茶碗にヒントを得たものであろう。
また本手瀬戸唐津といわれる深手の碗形茶碗もあり、唐津鬼子嶽飯洞甕下窯・同上窯・帆柱窯・道谷窯などから類似の破片が発見されています。
(茶道辞典淡交社より)
瀬戸唐津は尾張瀬戸の釉薬を用いるためにこの名があるといい、また瀬戸に類似している唐津であるためにこの名があるといわれます。
瀬戸唐津には本手と皮鯨手の二種があります。
本手瀬戸唐津:
本手瀬戸唐津は、砂気の多い白い土で、縮緬皺がよく出ていて、釉薬は長石単味に近く、色は灰白、白、琵琶色で梅花皮がよく出ています。
形は、柿の蔕、青井戸、蕎麦、呉器などを写していて、見込みの鏡に目跡があります
皮鯨手瀬戸唐津:
平茶碗の口縁に鉄釉が施され、鯨の皮に似た色に発色していることからこの名があります。
瀬戸黒(せとぐろ)
美濃(みので桃山時代に焼かれた黒色の茶碗。かつて瀬戸の産と考えられたのが名前の由来。
扇形(せんめん)
向付(むこうづけ)などに用いられる扇の形をした器。
半面開いたものは、半間扇と呼ばれる。
施釉(せゆう)
やきものに釉薬(ゆうやく)を施すこと。刷毛塗り、漬け掛けなどの方法もある。
千利休(せんのりきゅう)
安土桃山あづちももやま期の茶道の完成者で千家流茶道の開祖。
茶湯を武野紹鴎などに学び、16歳のとき京都で茶会を開いて茶湯の世界に登場しました。
のち大徳寺で参禅、宗易の号で茶会を主催、織田信長の茶頭、次いで豊臣秀吉に重用されました。
佗び茶を完成し草庵風の茶室様式を築き、多くの弟子を育てて茶道の発展に尽力を尽くしたが、秀吉の怒りを受け、切腹しました。
現在の茶道千家の始祖であり、茶聖と称せられています。