古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「け」
け
珪石(けいせき)
石英を主体とする地核の30%を占める珪酸質の岩石。陶磁器や釉薬(ゆうやく)の原料として利用。
珪酸(けいさん)
釉(うわぐすり)の主原料で、溶けて冷却するとガラス質になるが、単独では溶けにくい。
景徳鎮(けいとくちん)
唐時代に始まり、白磁青磁、青白磁(せいはくじ)、染付(そめつけ)、赤絵(あかえ)など様々な技法のものを焼いた中国江南省にある大窯業地。
景徳鎮窯では明時代中期になると民窯を中心にしだいに五彩、すなわち釉上彩の技法が盛んになっていきました。
鶏龍山(けいりゅうざん)
朝鮮・李朝時代初期の15,6世紀の窯。忠清南道に位置し、三島(みしま)・刷毛目(はけめ)・白磁(はくじ)などを焼いた。
鉄絵粉青を俗に鶏龍山(けいりゅうざん)と呼びますが、これは窯が忠清南道公州郡反浦面の鶏龍山山麓、鶴峰里に位置するためこの名があります。
鶏龍山窯址は、韓国で初めて発掘調査がおこなわれた窯としても有名です。
その成果は1929年、神田惣蔵・野守健編『鶏龍山麓陶窯址調査報告』(朝鮮総督府)にまとめられています。
発掘調査の結果、6箇所の窯が確認されたほか、数多くの印花や粉青鉄絵の陶片が出土しました。
また、「成化(せいか)二十三年」(1487年)や「嘉靖(かせい)十五年」(1536年)銘の墓誌などが出土し、粉青の年代を考えるうえで貴重な資料となりました。
この鶏龍山発掘の結果は広く受け入れられ、新たな高麗茶碗のひとつとして、あるいは唐津の源流説ともなっています。
景色(けしき)
器の表目に現れた、窯変(ようへん)や流し掛けなどによる釉薬(ゆうやく)や形の変化で、品物を鑑賞する場合の見所の一つになります。
景色は二通りあって、高麗茶碗などの磁肌に現れてくる景色は、使い込むのしたがって出てくる「雨漏り」などの育つ景色であり、自然釉は窯の中でつくられる作品そのものの景色です。
化粧掛け(けしょうがけ)
素地(きじ)とは違った色に仕上げるために、目指す色の陶土を表面に薄く掛けること。
化粧掛けは、素地が黒っぽいものや肌が美しくないものを白く見せるために行われていました。
表面に白い土の層をつくることによって、素地は白く滑らかになり、またその上に文様を描くにしても色がきれいに見えます。
こうした化粧掛けの技法は古くからあり、たとえば中国においては、唐代の三彩、宋代の磁州窯の製品等によく見られます。
磁州窯の場合は、化粧掛けされたものの上に文様を描くほか、文様の部分だけ表面の化粧土を掻き落とし、素地そのものの灰地を文様として表出させています。
朝鮮では化粧土を用いた装飾は多く、象嵌や刷毛目とともに、化粧掛けによる「粉引き(こひきまたは粉吹き)」の茶碗が名品として残されています。
粉引きの場合は、泥漿に浸す方の化粧掛けで、日本では九州各地の陶器窯でみられる他、美濃の織部や京都の乾山にも見られます。
特に、乾山は化粧土を絵具として用いていたようです。
下手もの(げてもの)
美術工芸品ではなく、日用雑器の類。民芸運動により素朴な美しさが評価。
蹴ろくろ(けろくろ)
足を使い、蹴って(足で引く場合もある)回転させる轆轤のこと。
作陶するときに使う道具で、九州・山口県の地区はルーツは朝鮮半島によるのが多く轆轤を足で蹴りながら作陶していました。
美濃瀬戸地区は主に手で回す「手回し轆轤」で作陶しています。
建盞(けんさん) 建盞天目(けんさんてんもく)
中国・宋時代に建窯でつくられた天目茶碗の総称。
口縁がひねり返し、高台は小さい。
中国福建省にある建窯で造られていた天目茶碗には、口縁部が強く反るタイプのものと、あまり反らないタイプ(いわゆる天目形)の2種類があります。
建窯の天目茶碗にかけられた黒い釉薬には、茶色や銀色の細かい縦筋が無数に見られるものが多く、日本では、これを稲の穂先の芒(禾)に見立てるため、この種の釉薬がかかった天目茶碗を禾目天目と呼んでいます。
建水(けんすい)
茶碗を清めた湯や水を入れるもので「こぼし」ともいいます。
唐銅、砂張(さはり)、 陶磁器、木地物などがあります。
建窯(けんよう)
中国・福建省建陽県にあった宋・元代の名窯。
黒釉(こくゆう)のかかった天目茶碗(てんもくちゃわん)を焼き、鎌倉・室町時代に日本へ輸出していました。
唐時代より青磁を、また宋時代から元時代には、黒釉の掛かった建盞と呼ばれる天目茶碗を産した。天目に用いられる黒釉は鉄分を多く含むために窯変が起こり、禾目天目・油滴天目・曜変天目がうまれた。明代に入ると牙白釉の掛かった白磁もつくるようになりました。
献上伊万里(けんじょういまり)
有田の磁器のうち、宮中の献上品。
献上唐津(けんじょうがらつ)
唐津市唐人町の御用窯(ごようがま)で江戸時代後期に焼かれた、肥前唐津城主より徳川将軍家に献上した精緻な唐津焼の茶碗。
唐津城主詩寺沢志摩の守広高が、寛永年間(1854-44)椎の峰の工人に命じてつくらせたのにはじまり、歴代の唐津城主が献上した。
中でも安政年間(1854-60)小笹原候により献上された雲鶴象嵌の茶碗が有名。
宝永4年から坊主町・唐人町で作られるようになり、大正期まで焼成されていた。