古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集

古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「ち」

茶入(ちゃいれ)

点前に使用するための、濃茶を入れる陶製の容器(小壷)。
通常は、象牙製の蓋をし、仕服(しふく)を着せます。
薄茶の容器のことは薄茶器、茶器という。

京都建仁寺の開山栄西禅師が宋から帰朝した際に、洛西栂尾の明恵上人に茶の種を贈るのに用いた漢柿蔕(あやのかきべた)の茶壷が始まりといわれます。

元々は薬味入・香料入などに使用されていた容器を転用したもです。

到来物の茶壷を唐物(からもの)茶入または漢作唐物茶入と称し、肩の張った物を「肩衝(かたつき)」、林檎に似た形の「文琳(ぶんりん)」、茄子に似た形の「茄子(なす)」、文琳と茄子の合の子のような「文茄(ぶんな)」「鶴首(つるくび)」「丸壺(まるつぼ)」「大海(たいかい)」「尻膨(しりぶくら)」などその姿から名付けられ分類されています。

その後、日本でつくられた茶入を和物茶入と称し、瀬戸の加藤四郎左衛門景正こと、藤四郎を陶祖として瀬戸窯を本窯と称し、四代目の破風窯までを個別に扱い五つに分類されています。

加藤四郎左衛門が瓶子窯で焼いたものを「古瀬戸」または彼の法号をとり「春慶」と称し、二代が焼いたものを藤四郎窯、真中古(まちゅうこ)という。

三代目が焼いたとされる金華山窯、四代目が焼いたとされる破風窯を中古物と称する。
利休の頃の破風窯以後の瀬戸、美濃、京都などで焼かれたものを後窯(のちがま)と称する。
その他は国焼(くにやき)の名称のもとで、各々その産地を冠して呼び名としています。

茶壺(ちゃつぼ)

石臼で擂りつぶす前の抹茶、すなわち碾茶(葉茶)を保管するために用いられる陶器製の壺(葉茶壺)です。
古くは抹茶を入れる茶入を小壺と呼んだことに対して大壺とも称された。

茶家(ちゃか)

薩摩焼(さつまやき)の酒器で、高さが低く平らな器形。

茶陶(ちゃとう)

茶の湯に用いられる焼き物のこと。茶壺(ちゃつぼ)、茶入(ちゃいれ)、建水(けんすい)など喫茶に関わるものから懐石の道具、炭道具など多彩。

貼花(ちょうか)

胎土と同じ土で、草花などの文様を作り、これを貼付けて釉(うわぐすり)をかけた貼付文様のこと。
素地に文様を貼付ける技法で、貼花(ちょうか)ともいいます。

型からぬいた文様を貼付けることが多いが、紐状の粘土を貼付けて文様を作るやり方もある。レリーフ状の陽刻文様を器に施す場合、ロクロで器を成形した後、素地の上に貼付ける方法と、器の表面を彫り込み、文様を浮彫にする方法、さらに文様そのものを彫り込んだ型を用いて、器胎を成形すると同時に陽刻文様を施す方法の3通りがある。

貼付けの技法は、古くは6世紀の中国の青磁や緑釉の作品にこの技法がみられ、7世紀の唐時代の三彩には盛んに用いられている。日本ではあまり発達しなかったが、17世紀以降の各地の窯で時々用いられている。ヨーロッパにおいては、18世紀のドイツの塩釉によるストーンウェアやイギリスのウェッジウッドなどに、精巧な型抜きの貼付け技法がみられる。

九州の陶磁器の中では、17世紀前半の三股(みつのまた)青磁(長崎県)や18世紀の鍋島青磁(佐賀県)に優れた貼付けの作品がある。

佐賀県立九州陶磁文化館報 セラミック九州/No22号より(平成2年発行)

長次郎(ちょうじろう)

楽茶碗は千利休の創意により、長次郎が作り始めたものです。
長次郎の茶碗は数多く伝世しているがその作行きは同じではありません。
この黒茶碗は姿の整った半筒形で、手びねりで作られ、見込みのかせた釉調に対し、外側には光沢が残っています。
添状には「大黒」と同寸であることが記されています。
端正な姿は「大黒」と共通するところであるが、張りの強い腰ややや幅広の高台畳付(挿図)からすると、初期の頃からやや降った時期の作と思われます。

長石釉(ちょうせきゆう)

長石を主成分とした釉薬(ゆうやく)で、やわらかな白色を発色。志野(しの)は代表的。

朝鮮唐津(ちょうせんからつ)

唐津焼の一種で、天正から寛永(1573-1644)年代の所産とされ、藤ノ川内窯・鬼子嶽帆柱窯・鬼子嶽皿屋窯・道納屋谷窯・金石原広谷窯・大川原窯などで焼成されていました。
海鼠釉と黒飴釉を掛け分けにしたもので、土質は赤黒です。
水指・花入・皿・鉢などが多く、茶碗は稀です。
唐津の窯で焼かれたことと、作風が朝鮮中部の諸窯で焼かれたものの流れを汲むところからの名称と称であろう。

茶道辞典淡交社より

朝鮮唐津とは絵唐津・斑唐津など、代表的な唐津の装飾の一つで、黒飴釉の上に海鼠釉を掛けたりまたその逆海鼠釉の上に黒飴釉を掛けたりしたものです。
この技法は全国の諸窯などに数多くありますが、朝鮮唐津は、黒飴釉の部分と海鼠釉の部分とを別々に掛け分けて、やや重なり合った部分が高温でガラス化し黒の部分と白の部分が溶け合い、絶妙な色と流れ具合の変化が特徴になります。

その名称の由来として、一説によりますと当時外国と言えば朝鮮が一番身近のようで、外国と言えば朝鮮という意味合いから来て、異国の所産のような唐津焼、朝鮮唐津と伝えるようになったようです。
でも朝鮮半島には朝鮮唐津のルーツになるような品々は少なく、日本に渡ってきてから発展したと解釈した方が良いと思います。

唐津焼は、初期の頃は壺・皿・碗等の一般民衆が使う器を生産していたのですが、桃山時代の豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592)頃より秀吉をはじめ千利休・古田織部等の中央の武人茶人達の影響を受け、お茶の文化が入ってき来たようです。
そのような時代的な背景で形状や装飾等に変化が現れてきたように思われます。

装飾の面では、初期の唐津には単独の顔料で絵を描き一種類の釉薬を掛けているだけが多かったのですが、時がたつにつれ絵唐津や青唐津などもそうですが、朝鮮唐津は特に、織部焼がペルシャの陶器に影響を受けたように唐津もそのようで、それぞれ違う釉薬を使い分けた装飾法が発展したと思います。
今でこそ流れ具合を重要視しますが、昔は、ただ掛け分けたという感じが強いようです。
作品には水指、花入、徳利、茶碗、皿などがあり藤の川内窯で開かれたものが多くあります。

中世六古窯(ちゅうせいろっこよう)六古窯(ろっこよう)

日本六古窯は中世六古窯のことで、最近の研究では中世二十数窯とも言われ、その数は増えていますが、日本六古窯は中世の代表的な窯で信楽、備前、 丹波、越前、瀬戸、常滑をいいます。

信楽

信楽焼は、現在の滋賀県甲賀郡信楽町で焼かれた陶器で、12世紀の末、平安時代末から始められたと考えられます。
信楽焼きは須恵器の流れをくみ、無釉、焼締め陶器です。
無釉と言っても、炎が強烈に当たった部分には、自然の灰が降り、それが摂氏1300度前後の炎の中で溶け、ビードロとなり、自然釉となっているものも少なくない。
焼成品目は、すり鉢、壷、甕の三種を主とした雑器でした。
この頃の陶工は、半農半陶で、農閑期に焼き物を作る仕事に従事していました。
窯跡は100基を超えるといわれているが、その殆どは未調査のまま荒れ果てています。

備前

備前焼きも信楽同様、須恵器の流れをくみ、十二世紀の末から始まったと考えられています。
現在の岡山県備前 市近郊で焼かれた焼き物で、信楽と同じように、すり鉢、壷、甕の三種を主とした雑器でした。
殆どの産地がそうであるように、室町時代の末になって茶の湯が盛んになってくると、茶器の生産を始めるようになるのは、備前とて同様でした。

丹波

丹波焼きは兵庫県多紀郡今田町立杭近辺で中世以来焼き続けられています。
中世の三種の器、壷、甕、すり鉢が 焼かれていたが、ここ丹波では、すり鉢が非常に少なく、江戸に入ってから多く焼かれるようになります。
丹波も、信楽、備前同様、須恵器系に属しています。
信楽、備前、丹波の各窯場の関西地方に位置する窯場は、須恵器の系列に属しています。

越前

越前焼きは福井県武生市の北西に位置する織田町、宮崎村を中心に焼かれていました。
北陸にはこの他にも加賀、珠洲、狼沢(おうえんざわ)の窯があります。
越前は、基本的には須恵器系に属するが、瀬戸の白瓷の影響も受け中世には瓷器系にも属し、前に述べた信楽、備前、丹波とは少し異なります。
製品は甕、壷、すり鉢等の生活雑器を中心に、現在まで引き継がれています。

瀬戸

瀬戸は、白瓷の系譜に属する施釉陶器で、現在の愛知県瀬戸市で連綿と続いています。
瀬戸は中世古窯における唯一の施釉陶器を製造し独自の道を歩んでいます。
従って、中世古窯においては殆どの窯場が甕、壷、すり鉢の三種を焼成していたが黄緑色や黒褐色の釉薬を使った壷や瓶子、山茶碗を焼成していました。

常滑

常滑焼の経緯は瀬戸の猿投窯の衰退と常滑古窯の発生とが大きく関わっています。
常滑の位置する知多半島には、3000基の窯が確認されているといいます。
現在最も古いと確認しているものは、三筋壷と同時に発見された四方仏石の刻文に天治2年(1125年)とあったものです。
常滑も、ほかの中世古窯と同じように、すり鉢状の鉢、甕、壷の日常雑器が主体でした。

沈寿官(ちんじゅかん)

薩摩焼の苗代川(なえしろがわ)系の朝鮮陶工。沈家は藩用の白薩摩を製作しており、当代14代目では金襴手(きんらんで)や透し彫りが特徴。