古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集

古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「は」

灰被り(はいかぶり)

窖窯や登窯などの薪窯で、焼成中に薪の灰が製品に掛かり、それがガラス化して一つの見どころになった箇所をいう。

灰釉(はいぐすり・はいゆう)灰釉(かいゆう)灰陶(はいとう)

樹や藁の灰を原料とした最も基本的な高火度釉。土灰釉(どばいゆう)、藁灰釉(わらばいゆう)など。「かいゆう」とも読みます。
焼成中に薪などの灰が被る自然釉ではなく、意識的に灰釉を掛けたもの。

杯洗(盃洗)(はいせん)

宴会などの席で、杯をやり取りする際に、杯を洗うための水を容れておく器。

萩焼(はぎやき)

山口県萩市と長門市で焼かれる陶器。一楽二萩三唐津といわれ、深い味わいの茶陶として有名です。

その起源は文禄 の役に帰順して大阪に来ていた朝鮮の陶工李勺光(一名シャムカン)を、その後豊臣秀吉が毛利輝元(寛永二年四月歿行年七十三歳)に預けられ、芸州広島にいたが、慶長五 年輝元は豊臣方に味方し、徳川方に敗れ、長州萩に改易されたので、李勺光もこれに 従い萩に移り、城下の松本村字中ノ倉に開窯したのに始まります。
その後、弟李敬を 朝鮮から呼び寄せ協力させています。

李敬は帰化して初め坂倉の姓を名乗りましたが、後に坂の姓に改め、通称を助八と申しました。
寛永二年藩主から「高麗左衛門」 の日本名を賜わり、藩の御抱窯として代々この名前を世襲して現在に及んでいます。

一方李勺光は輝元の命により昔から長州地方にあった古窯の調査を行ない、その復興 を命じられましたが、長州深川の三の瀬で歿しました。
その後李勺光の歿した長門市 深川の地に、山村光俊を主家として李勺光の弟子、山崎平左衛門達が寛文年間に創窯しました。

白磁(はくじ)

白色の素地(きじ)に透明釉(とうめいゆう)をかけ、高火度で焼成した白い磁器。
日本では17世紀に伊万里焼(いまりやき)で始まる。
白磁は中国宋時代の定窯によって代表されます。
淡いクリーム色がかった白磁胎に流麗な彫文様が施され、古今東西の白磁のなかでも最もすぐれたものの一つです。
青白磁は白磁胎に施された釉薬の成分や還元焼成によって、うすい青味を帯ぴ、また彫りくぼんだ部分に釉が溜って青くみえることから、影青(いんちん)とも呼ばれました。

刷毛目(はけめ)刷毛目茶碗(はけめちゃわん)

色土の素地(きじ)を白磁(はくじ)に似せるため、刷毛で白化粧を行なったもの。無造作な刷毛の痕が景色(けしき)の一つ。
色の濃い胎土の土の肌を白くするために、白泥を刷毛で塗りつけて、白い刷毛目のたった茶碗を刷毛目茶碗と呼びます。
多くは李朝初期に朝鮮の鶏龍山や務安で作られた雑器に属します。
黒っぽい土に白く浮いた刷毛目の無造作な景色を喜んで当事の茶人がつけた名ですが、このあたりでは白尼の生産量が少なく、その量を調節するためにこういう化粧法が生まれたと考えられます。

古刷毛目・櫛刷毛目・無地刷毛目などに類別されます。
わが国でも唐津の木原や現川(ウツツガワ)などで行なっています。

白化粧した後、クシを用いて文様を描き出したものをくし刷毛目と呼んでいます。

文様を切りぬいた型紙の上から波形で白土をすり込んだものを型紙刷毛目と呼んでいます。

白土で白化粧した上に鉄釉と銅釉を使って褐色と緑色の二彩で松文・山文などを描いているものをニ彩唐津と呼んでいます。

刷毛目は、化粧土を水に溶かした溶液の中に漬け込む粉引の方法とは別に、その化粧土の溶液を刷毛や藁を束ねたものなどで、刷毛塗りする方法ですが、お茶の世界では右回転の「の」の字を書くようにとされている。

化粧土の成分

主に鉄や他の参加金属類の含有量がないカオリン系を主成分とした粘土を水に溶かした泥状のものを使用しますが、生地に直接施すものや、素焼きに施すもの、乾燥程度に合わせた調合など陶芸家によりいろいろな方法があります。

バーナード・リーチ

イギリスの陶芸家。
東洋陶磁の特質にイギリスの伝統的技法を融合し、独自の作風を展開。
明治20年(1887年)~昭和54年(1979年) 香港生まれ。

明治42年(1909年)に来日して、始め宮川香山、その後大正元年(1912年)6代尾形乾山に師事し楽焼を学び、のち7代乾山を免許されました。

富本憲吉、濱田庄司、柳宗悦らと親交を結び、古陶磁・民芸の影響を受け、大正4年に北京に居住していましたが、柳宗悦のすすめにより日本へ戻りました。

波佐見焼(はさみやき)

長崎県波佐見町で焼かれた磁器。くらわんか茶碗などの日常品が多くあります。
慶長年間(16世紀末)大村藩主が朝鮮出兵の際連れ帰った陶工によって開窯され、その後、大村藩の手厚い保護を受け栄えました。

良質の天草陶石にコバルト色の呉須下絵を染付けた磁器で、全国の多くの家庭で愛用されています。
生地の生産が多く、有田焼の生地も主に波佐見で制作されています。
また、鋳込みの技術も国内最高クラスの技術があり、博多人形の鋳込みなども行っています。

馬上杯(ばじょうはい)

長い足状の高台がついた杯。
馬上で酒を飲むのにこの足を持って飲めることからの呼称。
中国の青磁・白磁に多く、わが国では唐津をはじめとする肥前の窯にみられまする。

端反り(はたぞり)

口縁部の端が、外側に向かって反っていること。

八寸(はっすん)

懐石道具の一種で、主客献酒のときに、取肴の器として使われます。
元来は赤杉の木地でつくられていたが、漆や陶磁器も用いられるようになりました。

懐石の食事の段に続き、吸物・八寸のもてなしがあります。
客が吸物を頂き終わると、亭主は八寸四角の杉木地の盆(これを八寸とよぶ)に酒の肴(さかな)二種をのせ、客に酒をすすめ、主客の間に盃の応酬がおこなわれます。
肴の二種は、海のもの(なまぐさ)、山のもの(精進)などの名でよばれ、客の数に亭主の分を加えて八寸に盛られます。

土師器(はじき)

古墳時代から平安時代まで焼かれた素地土器。「かわらけ」ともいう。
弥生式土器の系譜に属する赤褐色の素焼土器は、古墳時代にも引き続いて生産された。
古墳時代から古代にかけて作られたこの種の土器を土師器と呼んでいる。
一般に、丸底が多く装飾に乏しいが、古い土師器は小さな平底で、器表を櫛目文などで飾ることも多く、弥生式土器との区別は容易ではない。
器形には実にさまざまな大きさ、種類があり、その用途も水や穀物の備蓄用のもの、煮炊きする料理用のもの、祭祀用のものなど多岐にわたっている。

離駒 (はなれこま) 繋駒(つぎごま)

奥高麗片口の茶碗、唐津の片口を茶碗と見立てたものの銘のこと。
「つれつれの友」の著者松山靑柯氏の舊蔵に、片口を取りて、其あとを繕ひたる唐津茶碗銘繋駒あり、蓋し茶碗を馬に喩へて、片口の儘なるを離駒といい、取りたるを繋駒といふ由。
此茶碗は即ち片口の儘なる故、本来離駒の名ありしが、天保七年毛利侯之を獲て愛玩措かず「難波江に放ちし駒をひきかへしつなく手綱は江戸のむらさき」と口吟みて、是より名を繋駒と改めたりと云ふ。

『大正名器鑑』古唐津奥高麗茶碗に離駒(はなれこま)という茶碗があります。
「大正名器鑑に、直した茶碗を馬に喩え、注ぎ口の孔を閉じて片口をそのまま残したものを離れ駒といい、片口を取ったものを繋ぎ駒という。」とあります。
意味がいまいち反対のようにおもえますが、孔を閉じて口の役割を無くしたので離駒というのでしょうか。
昔より有名な話で、片口を茶碗に見立てて使えるのは唐津の茶碗で、他の焼では茶碗として認められなかったといいます。
それくらい唐津の片口は有名でした。

ハリ支え跡(はりささえあと)ハリ目跡(はりめあと)

底が焼成時に落ちるのを防ぐために置かれた円錐状の素地をハリと呼ぶ。
ハリを焼成後にとりのぞいた跡のこと。

飯洞甕窯(はんどうかめがま)

佐賀県東松浦郡北波多村にある唐津焼最古の窯。割竹式登り窯(わりたけしきのぼりがま)跡で有名。
飯洞甕上窯(はんどうがめうわがま)と飯洞甕下窯(はんどうがめしたがま)があります。

飯洞甕上窯(はんどうがめうわがま)

飯洞甕上窯は、焼成室間の段差が無く、割竹形の登窯でも最も古い形態の一つであることが確認されています。

本窯で多用される緑透色の土灰釉と透明釉は、その後に肥前西部地域に展開する唐津焼諸窯の主流となる釉薬で、窯構造・製品とも肥前陶器窯に直接繋がる窯跡として、重要な位置を占めています。

洞甕上窯跡の周囲は北波多村で公有化が完了し、前面に流れる小川とともに、当時の景観が良好に保存されています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定されています。

窯跡周辺は、山林や小川、池など自然環境に恵まれ、遊歩道を完備した「古窯の森公園」として整備されています。

飯洞甕下窯(はんどうがめしたがま)

飯洞甕下窯は、全長18.4mをはかる割竹形の登窯で、焚口から窯尻までが完全に残っています。

岸岳系古唐津窯の中では唯一、窯の上部構造である隔壁が残存しており、肥前系登窯の構造を研究する上で特に重要な遺跡です。
またその後の古唐津を特徴付ける、鉄絵装飾の初期製品が焼かれていることも有名です。

現在は、飯洞甕下窯の周囲は、金網のフェンスで囲われて、窯跡は上屋で覆い、残存する上部構造を保護しています。
昭和30年1月1日に佐賀県史跡に指定され、周辺は、「古窯の森公園」として整備されている。

藩窯(はんよう)

江戸時代につくられた御用窯のこと。
藩が献上品などの焼物を造らせるために開いた窯
江戸時代に各藩が経営し、鍋島藩のように献上品など最高の技術で作られたものや殖産目的なものなど様々。

万暦赤絵(ばんれきあかえ)

景徳鎮(けいとくちん)の官窯で、中国・明時代の万暦年間(1572~1620)に焼かれた赤絵(あかえ)の焼き物。
濃厚な色彩と過剰な文様が特徴です。

初期のものは良質で、日本では「万暦赤絵」として、水指や香合など茶道具として珍重されました。
日本には俗に万暦赤絵と呼ばれる万暦官窯の五彩の名品が多く収蔵されています。