古唐津及び唐津焼並びに陶芸に関する用語集 「ふ」
ふ
深川製磁(ふかがわせいじ)
深川製磁(ふかがわせいじ)は、日本の佐賀県にある陶磁器メーカーで、1894年世界の名窯を目指し、佐賀県有田町に工場を設立しました。
宮内庁御用達品をはじめ、日本独特の陶器づくりを追求し、現在に至っています。
パリ万博に出品した壺は有名です。
西有田に工場があり隣接したチャイナオンザパークはレストランもあり、「瓷器倉」は、深川製磁唯一の工場直営の「アウトレット」として2級品の販売も行っています。
「忠次舘」は、初代深川忠次の作品とその様式(スタイル)を継承している作品を同時に展示し深川様式のすべてが見られます。
吹墨(ふきずみ)
絵付技法の一つ。
水に溶いた絵具や呉須(ごす)を、霧吹きや細かい目のふるいに硬毛の筆を手早くこすって霧状にし、素地面に模様を付着させる絵付け技法。
袋物(ふくろもの)
壺や徳利、水指のように、口があり内部を包み込むような袋の形状をした器の俗称。
布志名焼(ふじなやき)
島根県玉造町布志名で焼かれる陶器。京風の仁清(にんせい)や乾山(けんざん)の写しなどがあり、現在は民芸陶品も焼成。
藤野川内(ふじのかわち)
「ふじのこうち」とも読む。
佐賀県伊万里市にあった、唐津焼の窯。
16世紀末から17世紀初めに操業し、朝鮮唐津、青唐津、絵唐津などを焼いていました。
芙蓉手(ふようで)
見込みに主文様を窓絵にして置き、周囲に蓮弁を配し、その中に宝尽しや花文を入れた意匠の磁器。
日本が長崎・出島のオランダ東インド会社(V.O.C.)を通じて西欧へ有田諸窯の陶磁器を輸出していた時期の大皿などが有名です。
中央部に同社の蘭名 Vereenigde Oostindishe Compagnie の頭文字を組み合わせたマークを描き入れ、まわりに石榴(ざくろ)、椿と太湖石にとまる鳳凰が描かれた文様です。
周縁部は放射状に分割され、中に牡丹文、石竹文で埋められています。
同種の皿類は、有田の大樽(おおだる)、猿川(さるかわ)、稗古場(ひえこば)の諸窯跡で数多く出土しており、かなりの量が焼成されたと推定されています。
最近の発掘調査で、この種の器の焼造は1690年代から18世紀初頭にかけてであることが明らかになりました。
フラックス
上絵具(うわえのぐ)を低温で溶かし、器体に着けるための珪酸鉛質の基材。
フリット
釉(うわぐすり)を低温でとけやすくするために、塩基成分から成る釉。
古田織部(ふるたおりべ)
美濃国山口(現在の岐早県本巣町)に生まれ、織田信艮、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠に仕えた武将であり、千利休(せんのりきゆう)の後を継いだ天下一の茶の湯の名人でした。
それまで佗(わび)を旨とし、数奇(すき)を重んずる駝佗(わび)の茶」から、後に“織部好み”といわれる歪んだもの、へうげもの(瓢軽(ひょうげ)たもの)を茶道具に取り入れるなど、ほのかに明るく華やかでおおらかな「武家の茶」を創り出しました。
古田高麗(ふるたごうらい)
古田高麗(ふるたごうらい)という茶碗があります。
古田織部の注文を受けて、朝鮮半島南部で焼かれたものらしのですが、織部が家康に死を命ぜられた時、この一碗を救い出すために一時の猶予を乞うたと伝えられています。
やがて小堀遠州の手に渡り、さらに古筆家に移るります。
古筆了佐の代に、吉原の楼主が了佐を遊興に眈(ふけ)らかせ、借金の質流れとしてこの茶碗を取りあげます。
天明年間に大坂で名碗のコンクールがあり、前評判で戦わずして敗れた鴻池櫨雪が、ライバル広岡の紅葉呉器(もみじごき)に勝る茶碗はないかと道具商加賀作に尋ねたところ、それは江戸吉原にある古田高麗のほかにはないと答え、加賀作はただちに命を受けて、上方の物持主人のように見せかけて吉原へ乗り込み、花扇という傾城を一か月間揚げづめにして楼主の歓心を買い、ついに古田高麗を千二百両、ノンコウ初雪を八百両、合わせて二千両で譲り受け、早かごで大阪に向います。
これを知った江戸の金持十人衆は、江戸にある数少ない宝物を奪われたとして切歯拍腕し、しばらくは、これが東西茶人の噂話を独占したといいます。
粉彩(ふんさい)
ぼかしを出したい部分に白いホウロウ質の釉薬(ゆうやく)を塗り、その上に釉薬(ゆうやく)で薄めた顔料で描き、ぼがしを出す方法。
粉青鉄絵(ふんせいてつえ)
白化粧のうえに鉄絵具で自由に文様が描かれた粉青鉄絵(ふんせいてつえ)は、韓国の霊山のひとつ、鶏龍山(けいりゅうざん)のふもとで焼かれました。
粉青鉄絵は15~16世紀を中心に焼かれ、のびやかな筆墨、笑みをさそうようなユニークな文様を特徴とし、朝鮮陶磁の粋ともされています。
粉青沙器(ふんせいさき)
粉青沙器とは灰色の胎土の上に白土を用いてさまざまな装飾を加えた陶器の総称で、わが国でいう三島、刷毛目に当たります。
刷毛を用いて白土を全面に塗り、そこに自由闊達な筆づかいで鉄絵文様を描いた一群は、韓国の忠清南道にある産地の名をとって俗に鶏龍山と呼ばれています。
日用の器として量産されたものであり、民衆の飾り気のない心情が投影されています。
分銅(ぶんどう)
円形の二つの部分が内側に入っていて、分銅秤の重りの形をした向付(むこうづけ)の器形。
織部焼によく見られます。
または、備前焼の金重家が用いた陶印をいいます。